1: AIと恋愛 / 2: アプローチ / 3: 思考の欠損 / 4: 我が創作の根底 / 5: 改憲論議 / 6: 京マチ子逝く / 7: 半減 / 8: CO2 / 9: 「平坦」ではなくなった / 10: バッハ「世俗カンタータ」より / 11: ドゥダメル / 12: 座産土偶 / 13: 改正憲法 / 14: 神 / 15: 真理はない / 16: 無 / 17: メンデルスゾーン『交響曲第2番』 / 18: don / 19: 道元 / 20: 琴とオーケストラの協奏曲 / |
<生物が示す基本的な特質と考えられているもの。自己を維持するための代謝,自己増殖としての成長,同型のものを再生産する複製,外界への反応性と適応性などの特質をあわせもつ物質複合体あるいは個体の状態をいう。>(コトバンク)
ほとんどの生物は異性を「選ぶ」。素粒子すら対の素粒子を「好み」で選ぶらしい(たとえ話)。オスは自分の遺伝子を継続させるために、生殖以前から熾烈な「闘争」を行っている。人間以外の生物は、その種にとって、どちらかと言えばメスが、種の繁栄に役立ちそうな相手を選ぶようだ。ライオンのメスは、たてがみの黒い、体力的に勝ったオスを選ぶという。 人間のオスもその例に漏れないが(自分の精子たちすら卵子に到達するために競争するという)、人間の場合は他の生物のように簡単ではない。見た目、職業、金銭、将来性、そして強い嗜好(たとえば暴力的なオスに強く惹かれるメス)等々、必ずしも「種の保存」が選択基準にはなっていないと思う。だからこそ「恋愛」という概念が生じた。そして、悪知恵があるだけに、確実に「自分の遺伝子」だけを残すために「結婚」という形式を編み出した。 記事にあるように<恋愛しているとの「幻想」さえ抱ければ、エージェント(代理になるモノ)相手でも恋愛は十分、成立する>だろうか? もしそうなら、「同型のものを再生産する複製」するのが「生物」なのだから、もはや生物では「ない」ということではないのか? また、<セックスでも、VR用のヘッドセットで映像を見て、触覚などの感覚をシリコンでつくられた成形で満たせば、人間との行為同様の満足感が得られる>だろうか? もしそうなら、断言する藤井直敬さんは、生身のパートナーとのセックスと、「シリコンでつくられた成形」とのセックスを経験したうえで結論を出したと思われる。 だいいち、「セックス」は、器官と器官の交合だけのことなのか? たとえばオスは、シリコンの器官に「射精」すればそれで満足感を得られるのか? メスはシリコンの男根が挿入され、擬似射精で充足感を得られるのか? 僕は「シリコンでつくられた成形」で「セックス」したことはないが、生身とシリコンと比べられるとは絶対に思わない。たとえば「妊娠」の可能性や危機、その時その瞬間のお互いの精神的肉体的条件や、更にはさまざまな「性の儀式」という多様な人間の「セックス」が「シリコン」相手で成立するわけがない。 村田沙耶香さんは<出会い、恋心が生まれ、交際して結ばれるという形態は、西洋でもたかだか200年程度の歴史しかない>というが、勘違いも甚だしい。また、<そもそも恋愛において人間が求めているのは、性愛も含めた陶酔感や精神的安定に過ぎない。人間同士である必要は本来、ない>と述べているが、それはたぶん、鉄器によって性的エクスタシーを得られる人のような「フェティシズム」の部類に属するだろう。 たとえば『万葉集』の数々の歌、『源氏物語』や歌舞伎、近松門左衛門の作品などでわかるように、日本にも「恋愛」があった。西洋にも無数の神話や、シェークスピアの作品でも分かるように、はるか昔から恋愛はあったのだ。日本では「傾城」といわれるほど男女の強い結びつきがあり、西洋では古いオペラなどでもほとんどが「恋愛」がらみのストーリーだ。 人間同士である必要があったからこそ、人間社会における無数の「ドラマ」が生まれてきた。けっしてAIなどでは代替できない領域の一つが、「恋愛・性愛」なのだ。このように思うのは、僕が古い世代だからだろうか? 2019/08/30(Fri) 12:32:51 [ No.3224 ] |
「日本再生」482号において、 <破局を迎えつつある「時間かせぎの政治」>とありますが、ほんとうに「アベ的政治」が破局を迎えるでしょうか? 僕には<自民党憲法を押しつける時期を迎えつつある「全体主義指向政治」>と思われます。また、安倍政権は<「守り」の姿勢>ではなく<「攻め」の姿勢>だと思います。「希望的観測」ではなく「客観的観測」が必要ではないでしょうか。
「破局にむけたカウントダウンに入っていることを示している。」と書かれていますが、本当にそうお思いなのでしょうか? この参院選において自公が「圧勝」するであろうことはいろんな報道から見て取ることができます。こんな「楽観的」な見方で、「当事者性を共有する場」を提供できるでしょうか? 「投票箱の外」の民意/「自己責任」なのか、「選択―責任―連帯」の社会をめざすのか この選択「問題」は、「当事者性を共有する」ことによって或る程度具体性を帯びると考えられます。問題は、投票に行かない人々にも、(安倍政権を支持するために)行く人々にも、「どのようにして当事者」であるということを実感してもらえるかという「方法論」です。 もちろん僕には処方箋を書くこともできません。しかし、「武器としての世論調査」に書かれているような「社会科学的」アプローチだけでは足りないことも事実です。 僕は現状の一面を、<現代人は、物事を断片的・一次元的にとらえて評価する。連続性、多次元性に思い至らない。この短絡性は世界中に蔓延している。まさに離散数値的なディジタル文化のもたらした「思考の欠損」なのではなかろうか>と考えています。2004年に僕は、龍門 歩というペンネームで『ディジタルホルモン』という「小説」を上梓しました。そのテーマが、思考のディジタル化による精神の崩壊です。残念ながら市場性を得ることはできませんでしたが、社会科学的アプローチに加えて、(自分で言うのもおこがましいのですが(^^;;))文芸や音楽、アートというような視点からも「現実に向き合うなかで、立憲民主主義をより鍛え」るためにアプローチすることも試みる価値があると思います。 2019/07/07(Sun) 14:00:23 [ No.3223 ] |
現代人は、物事を断片的・一次元的にとらえて評価する。連続性、多次元性に思い至らない。この短絡性は世界中に蔓延している。まさに離散的なディジタル文化のもたらした「思考の欠損」なのではなかろうか。僕が著した『ディジタルホルモン』によって指摘したとおりになったと思う。とはいえ、残念ながら僕は処方箋を示すことはできない。
2019/07/07(Sun) 13:20:04 [ No.3222 ] |
言葉は自らのエネルギーを以てはばたく。
2019/06/04(Tue) 11:48:50 [ No.3221 ] |
自民党の改憲案がいかに反民主主義的・全体主義的なものであるかを明らかにするためにも議論をすべきだ。現代の安全保障環境に向き合い、きっちりとした自衛策を立案する必要がある。土俵にのるべし。
https://www.sankei.com/politics/news/190522/plt1905220003-n1.html 2019/05/22(Wed) 11:42:47 [ No.3220 ] |