1: AIと恋愛 / 2: アプローチ / 3: 思考の欠損 / 4: 我が創作の根底 / 5: 改憲論議 / 6: 京マチ子逝く / 7: 半減 / 8: CO2 / 9: 「平坦」ではなくなった / 10: バッハ「世俗カンタータ」より / 11: ドゥダメル / 12: 座産土偶 / 13: 改正憲法 / 14: 神 / 15: 真理はない / 16: 無 / 17: メンデルスゾーン『交響曲第2番』 / 18: don / 19: 道元 / 20: 琴とオーケストラの協奏曲 / |
仮に「脳は神経回路に過ぎない」としても、脳は脳だけで活動することはなく、脳を含めた身体の「体験」が「我」なのだと思う。「意識」が脳だけで生まれ、機能するとは考えられない(事実、脳だけが司令塔だと思われていた身体において、あらゆる内臓同士がコミュニケーションを行ない、連携していることが解ってきたというではないか)。科学の先端を行く研究者が見落としているとは思えないが、確認しておくと、五感をはじめ身体全体で環境と相互作用することによって人間(脳ではない:ここが重要)は喜怒哀楽を覚え、知的活動等々が可能なのだ。
開頭して脳とコンピューターを回路として一体化した状態で日常生活を送ることができれば、活動で生じたあらゆる情報を伝達し、蓄積できるかもしれない。もっとも、脳が死んだ後、「活動の主体」を「脳」と同じように担うことができるかどうかは疑問である。そもそも、「意識のある機械」にとっての「活動」とは何だろう? 残念ながら思い浮かばない。 なお、デカルトの「我思う、故に我あり」は「神を疑わない」ことによって出された「結論」である。ついでに、「思う」は「惟う」と書くべきだとする説がある。 2018/08/16(Thu) 10:21:33 [ No.3201 ] |