1: AIと恋愛 / 2: アプローチ / 3: 思考の欠損 / 4: 我が創作の根底 / 5: 改憲論議 / 6: 京マチ子逝く / 7: 半減 / 8: CO2 / 9: 「平坦」ではなくなった / 10: バッハ「世俗カンタータ」より / 11: ドゥダメル / 12: 座産土偶 / 13: 改正憲法 / 14: 神 / 15: 真理はない / 16: 無 / 17: メンデルスゾーン『交響曲第2番』 / 18: don / 19: 道元 / 20: 琴とオーケストラの協奏曲 / |
ここ数日、何をしているのか自分で解らない状態だ。たぶん『サンスクリット原典現代語訳 法華経』(植木雅俊 訳)の上巻を読み終え、下巻を読み通すべきかどうか迷っているからだと思う。読むにしてもたいした時間はかからないから、どうせなら読了してしまえばいいのだが、どうにも気が進まない。
鳩摩羅什の訳による漢文読み下しの『法華経』は何百回となく読み込んでいる。しかし40年ほども経った現在でも、内容がどうにも解せない。釈迦没後500年後にまとめられただけに、嘘に嘘を塗り固めてあるような気がしてならないのだ。しかし、なぜ「仏典の宝庫」と言われるのか?何百回読み返しても解らない。ばかばかしいとも思える。しかし、底無し沼のように頭から離れないのだ。 そこで、原典訳なら少しは事情が分かるかと思って上述の本を読みはじめた。ところが、内容自体は変わらない。しかも「正確で読みやすい」などと宣伝しているが、固有名詞まで出てくるたびに同じく長たらしく意味を付して訳してあるから五月蠅い。本質的には、述べられていること自体、同じである。 ああ、どうしよう? 仕事も上の空。早く決着を付けなければ。とにかく、法華経の編者たちは、書きはじめたことがおかしいと気付いて、それを正当化するために次に屁理屈をこねているんだ。 そう自分で判断したんだから、その判断に自信を持てばいいのだ。しかし述べられている「無限」の概念は、宇宙の誕生は無限の時空において日常茶飯事だという、僕の描いている時空観に通じるんだよなぁ、、、、それでどうだというのだ? それでべつに構わないじゃないか。ブラックホールではなく、正に「底無し沼」。 2016/03/31(Thu) 17:32:37 [ No.3183 ] |