1: AIと恋愛 / 2: アプローチ / 3: 思考の欠損 / 4: 我が創作の根底 / 5: 改憲論議 / 6: 京マチ子逝く / 7: 半減 / 8: CO2 / 9: 「平坦」ではなくなった / 10: バッハ「世俗カンタータ」より / 11: ドゥダメル / 12: 座産土偶 / 13: 改正憲法 / 14: 神 / 15: 真理はない / 16: 無 / 17: メンデルスゾーン『交響曲第2番』 / 18: don / 19: 道元 / 20: 琴とオーケストラの協奏曲 / |
べつにデカルトに難癖をつけるわけではないが、デカルトはほんとうにすべてを疑ったのだろうかという疑いを抱いてしまったので、無知な僕が以下のような無駄な考察を行なった。
【われわれがきわめて明晰かつ判明に理解することはすべて真であるということ自体、次の理由によって初めて確実となるからである。神があり、存在すること、神が完全な存在者であること、われわれのうちにあるすべては神に由来すること。その結果として、われわれの観念や概念は、明晰かつ判明であるすべてにおいて、実在であり、神に由来するものであり、その点において、真でしかありえないことになる。】(デカルト著、谷川多佳子訳『方法序説』p.54) これでは「卵が先か鶏が先か」という議論と同じである。実際、「デカルトの循環」として古くから指摘されているという。 それよりなにより、「明晰かつ判明に理解することはすべて真である」などとはけっして言えない。現在ではむしろ、「明晰かつ判明に理解することがすべて真であるとは限らない」というほうが真実に近い。とすると、人間がきわめて明晰かつ判明に「神があり、存在する」と言ったところで、何の根拠もないわけだ。 さらには、〈すべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。そして「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する〔ワレ惟ウ、故ニワレ在リ〕」という(略)この真理−まず「真理」と言い切っている−を、(略)ためらうことなく受け入れられる、と判断した。〉(p.46)のだから、デカルトは神を疑わなかったと結論づけてもいいだろう。 2016/02/07(Sun) 18:12:08 [ No.3180 ] |