パニック障害患者です

 【パニック障害】という病名、今でこそ医学界で認知され、一般の人々にもある程度知られるようになりましたが、僕が23歳、後に命名された「パニック障害」を本格的に発症した1965年ころは、どの病院に行っても「気のせい」、よくて「心臓神経症」と診断され、ほとんど相手にされなかったものです。なかには「一生、治らない」と、「逆療法」を試みたドクターがいて、僕も「了解」しましたが、治るには至りませんでした。

 僕の場合は、電車など一定時間出られない閉鎖された空間に入ると、ひどい頻脈が生じ、虚血状態となったような状態に陥って心臓が痛み、死の恐怖を覚える症状でした。最初に発作らしき症状が発生したのは、大学生時代、アルバイトに行くために乗っていた電車の中でした。ある瞬間、不整脈を感じ、体を動かそうとしましたが満員で身動きが取れず、非常に焦って(当時で言う)心臓麻痺の恐怖に怯えたことを覚えています。

 それから間もなく社会人となり、結婚もし、子供もさずかりました。通勤はもちろん電車。閉鎖時間の長い急行には乗ることはできず、朝早く出て普通電車で一駅二駅と、降りては乗り、乗っては降りして、なんとか会社に通いました。口惜しくて、苦しくて、ホームのベンチで泣いたこともしばしばです。症状が重いときには、身重の妻に一緒に乗ってもらったりしました。

 もともと組織に馴染まない性質の僕は、転職や引っ越しを繰り返した挙げ句、とうとうフリーの編集者として校正グループに入りました。入ってからはさらに大変なことがあったのですが、数年後、幸運にも自家用車を購入することができました。自分で操り、好きなときに停車して外へ出られるクルマはパニック発作を引き起こさなかったのです。僕にとってはまさに「脚」となりました。

 やがてグループを離れ、ひとり自宅で仕事をすることにしました。東京多摩地区の住まいからクライアントの事務所のある都心との間をクルマで往復して、印刷媒体の編集関係の仕事をこなすことになったのです。

 しかし、パニック障害が治ってるわけではなく、アルコール、雷、大風、運動、その他なにかの折に発作がおそってくるので、気持ちは重く暗く、いつもいつもピリピリしていました。四六時中いっしょにいる妻や子も、気持ちの晴れるときはなかったにちがいありません。

 ある時期、森田療法も行なっている神経科にも通いました。漢方薬っぽい薬を処方してくれましたが、ドクターもそれ以上は積極的に「治療」をするでもなく症状はいっこうに治まりません。1年ほどたったある日、ドクターは催眠療法を行ないはじめました。ベッドに横たわりドクターの言うまま目をつぶると、「眠りなさい」だの、「私の言うとおりに」だの、なにか指示してきます。僕はまったくの覚醒状態でしたが、とにかく言われるまま深呼吸したり手を挙げたり下げたり、イメージしたりしました。何回か続いた後、僕はたまらず「全然、催眠状態にならない」と言うと、ドクターは「早くそう言ってくれればいいのに」と不満げな表情でした。僕としてはただドクターの言うとおりにしていたのですが、僕が催眠状態に陥っていると思いこんでいるドクターを傷つけたくなくて、言うとおりにしていたまでのこと。

 これじゃ、ラチがあかないと諦めて、僕は通院をやめました。

 そして、内科のH先生に症状を話したところ、2種類の薬を処方してくれました。これはかなり効き目がありました。気分がだいぶ軽くなったのです。ただし、電車に乗ってみようとはまったく思いませんでした。なにしろ、改札口の映像を思い浮かべるだけで発作が出そうになるくらいでしたから。しかも、何度も夜中や朝早く発作におそわれては、親切なH医院に息も絶え絶えに電話を入れ、自分で車を運転して駆け込みました。そして、心電計を付けてもらい、計測しはじめる……

 そのころには発作はすっかり治まっているのでした。H先生はそのたびに、「それが病気だから」と、恐縮する僕を慰めてくれました。

 何年間かそうしているうちに、なぜか症状が進行しはじめました。

「50歳を超えたら、悩みや神経症などはなくなる」と、ある識者が言っていたのを希望的に期待していた僕は、大きなショックを受けました。偶然にも、なんと50歳になったら、むしろ発作のきっかけが増えてきたのです。時間に追われる仕事の最中にも、終わってから風呂にはいるときも、発作におそわれるようになりました。やがて、シャワーを浴びるのもままならず、ふとした瞬間にも心臓が締め付けられるようになりました。  生きている瞬間瞬間が、いっそう暗く、恐怖心と絶望感に満ちてきました。

 ある日、製版所での1日の出張の仕事を終えて帰るとき、どうしてもエレベーターに乗ることができなくなりました。仲間に先に帰るよう伝え、僕自身は心臓を刺激しないように「無意識」しながら、階段をゆっくりと降りていきました。でも、そのころには心拍はかなり上昇していて、1階の事務室で全身震えながら雑談をしたあと、上の空で自分の車の停めてある駐車場へ行きました。そして、不安予兆の震える手でトランクに荷物を入れ、運転席側のドアを開けようとしました。が、なんということか! 心臓から血液がなくなったような激しい発作がおそってきて、鍵穴にキーを入れることすらできません。何度も試みましたが、苦しさは増すばかり。とうとう、愛車に乗ることができなくなったのです。

 僕は発作が去るまで時間をつぶそうと、近くの喫茶店に入りました。コーヒーを飲み、トイレに行きました。ところが、心臓が苦しくて小用を足すことすらできません。僕は何度もトイレを出たり入ったりしました。店員や他の客は、さぞ不審に思ったことでしょう。今なら〈不審者〉として警察にでも通報されたかもしれません。

 ますます苦しくなり、居ても立ってもいられず、喫茶店を出てからH先生に電話しました。「だいじょうぶですよ」と、H先生はいつものように言ってくれました。しかし、今回はどうにも発作は治まりません。元気そうに道行く人々の波の中に立ちつくしているうちに夜になってしまい、とうとう決心しました。目の前にある、大きな病院で診てもらうことにしたのです。出先で病院に行くなんてことは、かつてありませんでしたが、もう、どうにもならなくなっていました。

 その病院の、担当の医師も看護師も親切でした。僕は恥ずかしいながらも、大便がしたいと言いました。その日一日、小用もできなかったくらいですから、便器に座ることはなおさらできず、ずっとこらえていたのです。その恐怖を話すと、看護師がついてきて、トイレの入口で待っていてくれました。なんとか用を足すと、僕はやっと落ち着きました。

 診察室に戻ると、「顔色がよくなってきましたね」とドクターが言いました。たしかに、心臓もだいぶ楽になっていました。医師は「舌の下でゆっくり舐めるように」と錠剤を出してくれました(あとでH医師が言ったのですが、狭心症用の舌下錠だったようです)。僕はそれを舐め舐め、ようやく車に乗り込みました。途中、ドライブインで休憩を取り、ようやく帰宅することができました。

 が、症状はさらにどんどん重くなってゆきます。寝ても覚めても発作のことが気になりつづけ、しかも、狭心症や心筋梗塞もかくやと思うばかりに苦しくなって、食欲もなくなり、わずかでも心臓や神経を刺激しないようにと、そーーーっと行動していました。むしろ死んだほうがましではないかと、頭が破裂しそうになっていました。何か方法はないかと、(パイロットが訓練に用いるような)電車に乗るシミュレーション訓練療法を、医師に提案しようかなどと真面目に考えていました。

 たまらず、高校同期の内科の医師に電話で相談しました。彼によれば、やはり同期に神経科のT君がいるということでした。藁にもすがる思いでT医師に電話を入れ、同じ都内でもかなり遠かったのですが、T神経科に(幸い、再び乗れるようになっていたクルマで)行きました。忘れもしない、6月2日のことでした。

 待合室で問診票に記入し、緊張して診察室にはいると、穏和な表情のT医師が親しげな眼差しで待っていました。問診票を読み、二、三の質問をしてから彼は自信ありげにこう言いました。
「あなたの病気は〈空間恐怖を伴うパニック障害〉です」
 そして、付け加えました。
「薬で治りますよ」
 僕は唖然としました。30年間苦しんできた「神経症」が薬で治るなんて、うそだろ――

 T医師はソラナックス(安定剤)とアナフィラニール(抗鬱剤)、レンドルミン(睡眠導入剤)を処方してくれました(ソラナックスはH医師も処方してくれていて、「いい薬なんだ」とT医師は言いました)。

 治りたい一心で僕は指定されたとおりに薬を服用しました。服みはじめてから1週間のあいだ、眠気と倦怠感で、ほとんど1日中寝ていなければなりませんでした。それでも、なんとか必要最低限の仕事はできましたが。

 服みはじめて10日を過ぎたころから、眠気も倦怠感も薄れてきました。ただ、これまでしなかった居眠りを、よくするようになりました。1ヵ月半ほどたって、「こんど電車で来てみたら」とT医師が言いました。しかし、とてもとても、そんな気にはなれません。乗れるようになるなんて、夢にも思っていませんでしたから。

 夏休みに入った、ある晴れた午前中。僕はなぜか気分が浮き立つようで、美しい青い空と白い雲を眺めて解放感を味わっていました。突然、「電車に乗りにゆこう!」と思い立ちました。そのころはバスには乗れるようになっていたので、息子二人に同道を願ってバスで吉祥寺に行き、京王井の頭線の切符を買い、改札口からホームに入りました。まるで、嘘のように障害がありません。そして、いささかの恐怖も覚えることなく、また何十年というブランクも感じることなく、楽しく電車に乗ることができたのです!

 車内で僕は、息子たちを相手に大はしゃぎにはしゃいでしまいました。
 T医師、子供、妻に感謝感謝です!
 なんとその日のうちに、昔、通勤電車として利用していた西武新宿線の急行に妻と共に乗り、西武新宿を往復しました。妻は涙を流して喜んでくれました。

 それから僕は嬉しさのあまり、混んだJR線、特急、モノレール、船、そして新幹線と、大喜びで乗り回しました。雷も強風も停電も怖くなくなりました。エレベーターもトイレも風呂も自由です。飲み屋で友人とアルコールを飲んで夜を満喫できるようになりました。仕事ばかりでなく、一人格としての活動範囲が、空間的にも時間的にも大きく大きく広がったのです。
〔普通の人の生活ってこうなんだ! こんなに打ち解けた気分なんだ〕
 僕は社会人になってから初めて味わう驚きと共に、新鮮な気持ちで毎日を過ごすようになりました。性格も穏和になり、家庭の〈ピリピリ感〉がだいぶ和らぎました。いったい自分は、薬を飲んだときの人格がほんものなのか、それとも以前の人格がほんものなのかと、悩むときもありますが、それも軽い悩みにすぎません。そんなことはどうでもいい、恐怖の日々から解放され、思うように行動でき、家族も明るくなった今がいいに決まってる! そう思います。

 僕の場合は、幸運だったのかもしれません。いい医師に出会い、病気に合う薬を処方してもらい、すっかり発作が出なくなったのですから。ただ、治療開始10年たった現在も、薬は服み続けています。T医師の勧めで、服用量を減らしてみたこともありますが、そうするとやはり、わずかな不整脈などが気になって〈心臓の存在〉を感じます。T医師は〈薬依存症〉のことを心配して服用量を減らすほうがいいと思ってるようですが、はっきり言って間違いなく〈依存症〉です。でも、僕はそれでもいいと思ってます。何事も積極的に行動でき、アグレッシブな気持ちで歩むことができる喜びは、何ものにも代え難いものです。耳を澄ますというか、心臓の動きに神経をとがらせるというか、気の安まる一瞬すらない〈パニック障害〉の状態に、絶対戻りたくはありません。これからも薬を服みながら、生きてる間は元気で活動しようと思ってます。

 書き忘れていたら、現象が先に再現しました。ほぼ鉛直に近い階段を昇りきったところで、階段に立ったままみそ汁を飲む夢です。階段から転落するような恐怖に戦き、心臓の苦しさで目が覚めました。そう、僕の場合、覚醒時の発作とは別に就寝中に心臓が頻脈、不整脈、徐脈などの変調を来たすのです。それを切っ掛けに発作になることもしばしばでしたが、なんとも言えぬ苦しい悪夢には、ほんとに悩まされました。猛獣に天井裏まで追われる夢、ピストルで撃ち殺される夢、綱渡りのようにロープをわたる夢――半生のうちに楽しい夢を見たのはほんの2、3回。数限りない悪夢に苦しみました。悪夢をよく見る人は、パニック障害かもしれませんので、一度、神経科に診てもらうことをお薦めします。どんな病でも、早期発見・早期治療がいいに決まってますから。

 こんな粗雑な体験談でも、精神障害で苦しんでる方に、少しは元気を分けてさしあげられるでしょうか? 気が向いたらなんなりと気軽にご相談ください。頑張らないでいいから、希望をもって。



2004年8月1日

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